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三和建設の歴史

「人のご縁とお蔭」「革新・挑戦」「愚直な取組み姿勢」で育まれた60余年の歴史

三和建設の歴史を振りかってみると、「ご縁とお蔭」「革新・挑戦」「愚直な取組み姿勢」といったキーワードが浮かんできます。本当に多くのお得様に支えられ、多く社員が関係者の革新と挑戦。そして、歴代トップをはじめとする会社全体の愚直な取組み姿勢により、成長してきました。

昭和20年代 戦後の復興期

創立

昭和22年5月 終戦後の復興期に、森本多三郎(当時、鹿島組常務取締役)が三和木材工業を創立。

「安定した地域に甘んじるよりは、男一匹好きなことを思いっきりやってみたい。その成果を後世に伝いたい」

ご縁による第1号得意先

多三郎の若い頃からの友人である杉村倉庫の経理課長北村氏から、福崎地区復興依頼を受けた。第一号得意先、杉村倉庫は、世紀を越え今日でも受け継がれている。

工場鉄骨の再利用による創設期の受注

戦災を受けた工場鉄骨の再利用に着手する。お陰で、鋼材の入手難が解決し、しかも低価格で鉄骨製造物を製作できた。

昭和22年日立造船(株)桜島工場の復興工事を受注。古鉄骨需要は、昭和30年頃まで続き、創設期における会社の基礎固めとなった。

社員会の結成

昭和23年に、社員会が結成される。会社設立が5月なので、さつき会と名づけられ現在にまで受け継がれている。

総合工事会社として三和建設工業に社名を変更と社章の図案化

杉村倉庫の土木工事が足がかりとなり、総合工事の会社経営の見通しがつき、昭和23年10月16日、社名を三和建設工業株式会社に変更、社員より社章の図案を募集し、三和の頭文字のS、建設の建の図案化、工業の工の図案化をあわせ社章が決定した。

寿屋(現サントリー)との最初のご縁

昭和25年後の三和建設常務岡本定一が、親しかった多三郎に寿屋を紹介し、その後、信頼関係を築き、サントリーの発展とともに、受注拡大に繋がっていく。岡本定一は、後日、当社の常務となる。

設計部門の本格稼動開始

昭和26年3月鹿島組を退社した、竹花末春が入社し、設計部門の本格的な且つ活動が始まる。設計部ができたせいで得意先の要望に機敏な対応が可能になり、ますますの実績を上げていった。

昭和29年4月5日総合建設請負業として、三和建設株式会社に社名を変更

多三郎は、社員の仕事に対する取組み指導を行い、与えられた仕事は、常に施主の立場になって、精神誠意取り組むように教育した。社員も素直に実践し、この社員の姿勢が当社の財産となり、広く長く得意先の信用を繋ぐこととなった。昭和22年4名の社員数は、25年位から毎年4~5名の新規採用をし、20年代末には40名に達した。


昭和30年代 日本の著しい経済成長時代

受注増大

多くの工事受注を獲得していく。特に寿屋の飛躍的な発展に伴う発注工事の増加を半ば独占的に受注していき、受注額は、20年代に比べ20倍以上、当社全体の実に4分の1を越えた。

日本初の軽量鉄鋼工場の施工

昭和31年 八幡溶接棒株式会社福知山工場で、新鋼材軽量化多鋼を使った日本最初の工場を施工。この新素材を使い、内装の伴う一般建設物の施策として、手狭になった木造社屋を建て替え、全国初の軽量鉄鋼造事務所が昭和32年4月に完成。その後、軽量鉄骨は、全国でブームになり、この実績を活かしていった。

日本建築学会賞を受賞

寿屋、山崎工場、制麦工場新築工事は、昭和34年度、日本建築学会賞を受賞。

併せて多三郎は、竣工式で、後のサントリーの社長となる佐治敬三氏から感謝表彰を受ける。

東京進出と京都営業所新築

昭和31年将来を見越して東京事務所を開設。同時に京都営業所も新築。

海外でも紹介された寺建築

大本山妙心寺 花園会館新築工事を受注。昭和33年に完成した建物は、周囲とも調和の取れたデザインが評判となり、広く海外にも紹介された。

埼玉県川口市に川口工作所を開設

川口工作所

昭和34年10月関東での鉄骨自社製作を主目的として、埼玉県川口市に川口工作所を開設した。

大型工作工事を当社考案工法で大成功

昭和34年4月土木部が、日立造船桜島工場で、大型工作工事の基礎工事を受注。この難しい工事を、当社考案の潜入潜函井筒工法で大成功を収めた。この工法は、特許登録され多くの実績を上げていく。


昭和40年代 品不足の狂乱物価による経済不況

木村寝台工業他たくさんのお取引先とのご縁

木村寝台工業の工事を昭和40年11月 当社関連工事を次々と発注いただき重要な得意
先となる。そして、淀川製鋼所紀州製紙、千成工業所など、たくさんのお取引先を獲得。

日本ファイリングスカイラックシステム完成

流通倉庫の時代に当たり、合理的なラック式の研究開発を日本ファイリングと実施。昭和42年5月日本ファイリングスカイラックシステムとして完成。

その後、小型HI工を主体とした当社企画立案のラック式倉庫が大きく花を咲かせた。三和ラックシステムビルと名づけパンフレットも作成され、17年間で25件を受注。


新社屋完成

昭和44年頃は、業績好調で業界の業績3羽ガラスと言われ、本格的な社屋建設に踏み切った。昭和45年1月新社屋完成。竣工披露パーティーには、たくさんの列席をいただき、披露宴会場の前の立てた金屏風の前には、多三郎の晴れ姿が一日中続いた。

森本多三郎他界

昭和45年6月29日 森本多三郎 持病の糖尿病悪化で他界する。享年73歳。昭和45年7月11日 当社施工の臨済宗大仙寺で社葬。雨の降りしきる中、多数の方々にご回想いただいた。

豊富なアイデアとユニークな発想。決断の早さと鋭さ。そしてユーモアを介する暖かい人柄と人情が同居する人であった。

2代目社長 竹下文武が代表取締役就任

設計部DEMOS電算機で大手にもひけを取らない信頼性

手計算をしていた設計部は、電算機の必要性痛感し、大阪でもいまだ契約10社にも満たないDEMOSという電算機を昭和47年8月に導入。計算業務の信頼性をレベルアップさせ、大手業者とひけを取らなくなり威力を発揮。

昭和50年代、安定成長期と言われているが、景気上昇はまだまだ

難工事完成による得意先の信頼

昭和50年9月淀川製鋼所より、大阪遠心鋳造機 基礎ピット工事を受注。

土木部が苦心して取り組んだ難工事になったが、無事完成し、この工事で得た信頼により、大型機械基礎工事の受注を容易にした。

森本晴夫は三代目社長誕生

初代社長森本多三郎の長男である晴夫が社長に就任。

創業以来、当社は、堅実をモットーとしてきた守りの会社だったが、不況に負けない攻撃的な体質を併せ持つべきであると考え、営業部の強化、旧得意先の情報掘り起こし、新規得意先の開拓と、工事の獲得を最重点課題として取り組む。

社長自らの夜駆け朝駆けのトップセールス

晴夫は大阪のみならず、京都・東京のお得意先をかけまわった。

仕事のニュースが入ると、お願いに飛んで行き、受注の吉報が入ると、出張で帰宅した直後でも、すぐお礼に飛んでいった。

東京支店人事強化と新社屋完成

関東の建築市場規模の大きさに着目した人事強化等の機構改革により、東京支店の着実に成長。念願であった東京支店は、新社屋が昭和58年4月、荒川区に完成。

トータル3C活動の推進

協力会社の活用とコストダウンを進めていくには、連動体制の効果的運用が不可欠であり、三社がうまくかみ合ってこそ、成功が可能だという結論をトータル3C(collaboration、consensus、cost)と名づけこの活動を開始。


昭和60年代~平成へ バブル景気の崩壊や阪神・淡路大震災と日本ゆれた時代

創立40周年式典開催

昭和62年5月当社は、創立40周年を向かえ、本社敷地で、記念式典を盛大に開催。

全社員と家族を招待し、遠くは、九州鹿児島からもきて頂いた。本社事務所等では、仕事で活躍する社員の姿を見ていただこうと様々な写真を展示した。メイン会場のステージは、大いに盛り上がる。晴夫は、締めの挨拶で、社員を支える家族に対して敬意を表した。

初の売上高100億を突破

平成に入って、集合住宅の公共工事受注が続いた。中でも、平成2年から始まった加島第2住宅は、1期から3期まで請負6年間に渡り、40億近くの工事となる。バブル景気による建設ラッシュ。当社も受注量が増大した。多くの幅広い工事を手掛け、ついに、平成2年9月期の第44期決算において、初の売上高100億を突破。3期に渡り100億を突破した。

全天候型現場仮設屋根 ハレルヤボーイの考案と特許取得

全天候型現場仮設屋根 ハレルヤボーイもこの時考案され、特許を取得した。

阪神・淡路大震災と復興工事での発見

平成7年1月17日午前5時46分突然の揺れに襲われる。死者6400人あまり、被害総額10兆円と史上最悪の災害、阪神・淡路大震災の発生、得意先では死者の発生、建物への被害と次々と連絡が入った。道路、交通機関寸断で、社員の通勤もままならない中、即日、復旧工事に取り掛かり、2日後の1月19日には、社内に災害対策本部を設置、本部の指揮のもと、被害地復旧に向けての社員総動員体制が出来上がった。

建設作業服で被災地に居ると、何かと頼られ、建物の相談をたくさん受けた。毎日遅くまで、身体は疲弊したが、我々の技術が必要とされ、ほこりとやりがいを感じた。

RCマンションでの経験による技術力の底上げ

この頃数多く施工したRCマンションの経験は、若手教育に留まらず、当社の技術力底上げに、大きな役割を果たし、後の当社RC集合住宅施工の原動力となる。

京都支店での郵便局受注

京都支店では、数多くの郵便局の新築工事が続いた。郵政事業が民営化されるまで、それらは続き、京都支店の特徴の一つとなった。

お得意先がトップメーカーへ成長

木村寝台は、医療用寝台のトップメーカーパラマウントベッドへと成長した。この時代は、同社の増強工事が連続し、東京支店工事実績を支えた。

全員初の海外での創立45年式典、そして創立50周年

平成4年に、創立45年を迎えた当社は、全社員で初の海外台湾旅行を催行し式典をとりおこなった。

創立50周年記念式典は、全社員で、オーストラリアへ行った。


平成10年代、企業が生き残りをかけ、提携や合併が相次ぐ

ISO9001の取得

平成11年年末、ISO9001を取得した。当時、建設業界では、大手は取得していたものの我々クラスでは早いほうだった。

世紀越えのプロジェクト

平成2年に拡張工事を終えたサントリー食品工業宇治川工場は、21世紀になったら、敷地を拡張し、製品倉庫の拡張と生産ラインの拡張を行うといっていた。その世紀を越えた計画が固まり、遂に着工を迎えたのである。

コーポレートカラーをブルーからオレンジ

本社移転に伴い、イメージチェンジを行うことにした。コーポレートカラーをブルーからオレンジに一新。若々しくて温かみのあるイメージとし、ロゴマークも変更。再び、篠塚氏に依頼、Sの字をあしらい、調和をイメージし、上と下でしっかり結び合ったデザインがこれからの当社のイメージにぴったりだった。

分譲マンション施工に着手

平成13年ソレイユシリーズを皮切りに、分譲マンションの施工を手掛けるようになった。以後、6年間で10物件の分譲マンションの施工実績を作った。

倉庫や工場の施工技術を活かした鉄鋼造の大型商業施設受注

倉庫や工場の施工技術を活かし、鉄鋼造の大型商業施設の建設受注に積極的に動いた。なかでも、ヤマダ電機神戸本店は、これまでの常識では不可能と言われるような短工期、施工は、24時間稼動交代制で行った。躯体、外装、内装それぞれに所長クラスを配置し、多いときには、200人を越える職人が作業をする大きな現場は見事一つにまとまった。8月2日最大規模の店舗となったテックランド神戸本店が無事オープンした。以後、ヤマダ電機は、継続取引先となった。

ルネス工法特許使用権獲得と全国2位の受注実績

平成17年ルネス工法の特許使用権を獲得。ルネス工法による賃貸マンション市場への提案型営業は、当社にとって、新たな受注構造の改革をもたらした。平成17年に、サンプラザ少路駅前ルネスマンション受注以来、着実に実績を伸ばした。わずか3年足らずで、全国の加盟店70社のうち、堂々第2位による受注実績によるシルバートロフィーを受賞した。

杉村倉庫からの運命的な大型受注

平成18年、杉村倉庫から、市場最大規模となる倉庫の計画を本格的に開始することを告げられた。スーパーゼネコンを含む大手とのコンペの結果、長年と実績と信頼による提案が採用され当社に決定したと連絡をもらった。延べ床面積3万3千を越える空前の規模の工事は、設計施工にて数十億を超える大プロジェクトとなった。

倉庫建設を中心に得意先に愛され、ともに成長してきた三和建設にとって、60年を迎えようとしていたこの時期に、創業第一号の得意先からの受注は運命的。

東京近隣営業活動

東京支店は、新たな販路を見出そうと近隣営業活動に取り組んできた。荒川区に支店を移して15年周年を迎えた平成10年当たりから、その地道な活動は実を結び始め、現在では、東京支店の営業スタイルの柱まで育った。

創立60周年記念式典

平成19年5月当社は創立60周年を向かえ、全社員で香港に渡り創立60周年記念式典を行った。

総合評価方式での受注

平成20年9月我々の新しい取組みが、また身を結ぶ。従来の単なる価格だけの入札ではなく、新しく取り組まれている総合評価方式で、我々の提案が、高く評価され、京都市立東山区北部小中学校の新築工事を落札することができた。

4代目社長に森本尚孝就任

平成20年10月、31年間社長を務めた森本晴夫に変わり、森本尚孝が社長に就任。新しい力を身につけた三和建設。

エスアイ200

自社企画ブランド-“エス・アイ200”が、国土交通省による平成21年度長期優良住宅先導的モデル事業として採択を受けた。 三和建設が積極的に提案してきた住宅のあり方が、国からも公式な評価を得たことになる。